ささまる血風帳

140字にまとめるのが苦手

「天気の子」ごっこ

毎度毎度最終回のつもりでブログを更新し続ける僕です。メメント・モリ

というより文章全般そんな感じなのだが、僕は継続的に文章を考えるということが苦手だ。出し惜しみ(というより戦略的に秘めておく)ということが極端に苦手で、この話はまた今度しよう、だとかそういうのが出来ない。その結果、3万字近くの文章を書き終わった時には「もう書けねえな」とその都度口にしている。ちなみにシリーズものはある程度完成してから貯めてストックを吐き出す方式を取っているので、これは継続的に書けているわけではなくただの瞬間風速を継ぎ足してぎりぎり前に進めているだけの話である。

特にここ最近の文章の書けなさと言ったらそれは甚だしく、仕事(テレワーク)が終わった瞬間(23時)、即座に缶チューハイを小気味好く開栓しては喉に流し込み絶叫する生活を続けているので、シンプルに脳みそが平穏な時間がない。しかし平生の人間というものは二次創作小説なんて書くはずもないし、何も焦る必要がないはずであるのだが、どう言ったわけか謎に書き続けることができていたものが書けなくなる、というのはどうにも切ない部分もある。

 

ちなみにこれはスランプとかではない。

スランプがどうとか言えるほど僕は立派じゃない。

 

まあこれからもゆったりやります。別に作家じゃないし。

今日は近況報告とともに好きな映画の話をば。別にそんな真面目には話さない。

 

なぜか狂おしいほど好きな「天気の子」

はい。「君の名は。」以降の新海が好きな僕です。ミーハーと謗ってくれても構わない。そも、ミーハーがどうこうという色眼鏡がついている人間にコンテンツの公正な評価が下せるかどうかは甚だ疑問だが、別に新海が好きなわけじゃなくて『「君の名は。」以降の新海』が好きなのであってそもそも新海ファンとは立ってるステージが違うことだけは主張しておきたい。良いもんは良い、良くないもんは良くないのである。ちなみに僕は生粋の逆張り気質なので、自らかがげているこのイデオロギーに真っ向から反発するという奥ゆかしい性質を抱えて生きている。生きづらいことこの上ない。遊戯王はやってない。ウマ娘は最近やってる。ゴールドシチーにズブズブ。

ってことでそもそも何が好きなの?と言われれば映像美、都会のごっちゃりとした風景を腹立つくらいに美しく描いてくれているのが好きなところなのだが、その点で言えばシャニマスも同様なのではないかと思う。現実に存在する風景を緻密に描くからこそそのキャラクターの息遣いが聞こえてくるもので、そう言ったところから聖地巡礼なども文化として根付いているのではないかと思うが、そんなめんどくさいことは置いといて背景が綺麗だとシンプルに「キャラクター成分」が強くなりすぎなくていい。こういうのは「キャラソン」が苦手なメンタルに共通する部分があるかも知れないが、これは多分悪口になるのでそっと胸に秘めておこうと思う。こういうところが僕の偉いところだ。ただ臆病なだけとも言えるが。

それと同じように「最近のRAD」も同様に好きだ。昔のRADはアイロニカルな歌詞で世間を誹るのが主で、10代後半の僕の思春期的精神には深く刺さったものだが、まあ色々と世間の何某に怒ることにも疲れ始めると、そんな歌詞は聞いていても辟易するだけなので徐々に苦手になっていった。そのタイミングで、最近のRADには「色々な悲しみや怒りを乗り越えた先の諦念を帯びた優しさ」が滲むようになっていて、これも新海作品のあり方のそれと重なる部分はありそうだが、そういうところが好きでたまらないのだと思う。自分に重ねる、などという10代の女子が西野カナ(もしかしてこれ古い?)を聞いてその歌詞をスマホの待ち受けにするような(もう今の子はしない?)、そんな小っ恥ずかしいことはできないけれども、自分の辿ってきた精神的変遷に寄り添うように移り変わってきてくれたものというのは否応がなく好きになる。

ここからは完全な個人的感想だが、『天気の子』で描かれているのは「理不尽な世界にファックフィンガーを突き立てること」だと思う。(なんかこんなこと二次創作の中でも書いた気がするが、まあある程度根底にこの映画があるかも知れない。ないかも知れない。)

一般に、少女と少年の恋愛などというものは社会に足蹴にされるものだ。作中でも「どうしようもないチカラ(社会的圧力)」によって2人は引き剥がされる。

「これ以上僕達から何も足さないでください 何も引かないでください(原文ママかどうかは知らん)」という作中での帆高の台詞はそれを端的に表している。それだけで満ち足りているのに、社会はそこに何かを足そうとしたり、引こうとしたりする。「そこ」にいる人間の意志は関係なく、ただ「足した方がいい」「引いた方がいい」というジャッジを「ルール」のなかで無機質的に行い、そしてそれを遂行する。現代では、少年少女はそうして蹂躙され、そしてつまらない「社会」人になる。

「社会のために引き裂かれていた」少年少女を描き続け、そして映画の最後に描き出されるのは「少年少女のために滅茶苦茶にされる文明」というカウンター。しかも、そこにあるのは「社会を打ち負かしてやった」などという憎悪ではなくて、一種のスポーツマンシップのような清々しい感情。滅茶苦茶になった世界で、それでもたくましく生き続けている人間が描かれているところが僕はフェアでいいと思う。ここで社会が無茶苦茶になってざまあみろ、となると一気に話がチープになる。どっちが悪い、どっちがいいで片付ける勧善懲悪に疲れた僕に取って、この終わり方はとても心地よかった。

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テレワーク突入前は昼休みに会社を抜け出しては川のほとりで佇んでいるのが僕のルーティンだったが、これもしなくなるとどこか寂しく愛おしい。でも冬場のこれはシンプルに寒いのでやっぱりやらない方がいい。とてもじゃないがスマホなんて触れないし、何より道ゆくwalkingご老人に「病んでる」っぽく見られるのがきつい。そもそも映画作品の雰囲気をなんとなく感じられるからと言って昼休みに1人川べりに佇んでいる成人男性が病んでいないのかというかなり不利な問いから始めなければいけないので、この話は早めに畳んでおくことにする。

でも、ごっちゃりしてて、うるさくて、機械的で、それでも腹立つくらいに綺麗な街を眺めるのはやってみるとやっぱり普通に気分がいい。

マスクをつけて外に出ないと全裸扱いされる世の中に変わっていくようだが、なんだかんだで僕らは懸命に生きているので、そこまで悲観することもないのかも知れない。なんかそれっぽい言葉で締まったので、いらない事言って台無しにする前に今日は終わっておこうと思う。また来年。